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本日は夏期講習の中休み。ここまで全力で走ってきた生徒の休息と部活動組の補講も考えて、今日1日講習を外してあります。明日も含めれば2連休ですね。

この2日をどう使おうと、生徒の自由です。宿題の処理に充てても良い。しっかり休息をとってもいい。今までの復習をしても良いでしょう。

でも、それは子供のおはなし。私自身は、本日も休むことなく普通に8時半から自習室に来る生徒のために待機しています。そして、いつも通りに生徒はやって来るのです。(ただし、部活体験などがあり、予想よりも参加者は少なかった。その分、身体はラクでしたが)
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生徒には何度も言っていますが、「来ている」から偉いわけではありません。ブログには「こんだけ来てんねんで!」と生徒に対して挑発的に書いているだけで、私自身は家で集中して勉強できるのならば、それが一番だと思っています。

でも、正直してないでしょ?

どなたかがTwitterでつぶやいておられましたが、「期日を誰かに決められる事なく自らで守ることが出来る人間は、偏差値で言えば70以上の人だけ!」だ、そうです。

根拠のある数字かどうかは知りませんが、確かに割合的には仕事上で嫌になるくらい経験している事です。

そこで、「塾に来なさい」式になってしまうわけですが、確かに塾でやっている時の集中力は、親ばか目線ですが誉めるべくレベルのものだと自負していますし、実際に「めっちゃ勉強はかどった!」「もの凄い量をやれた」と言って嬉々として帰るシーンを何度も目にしています。

朝学のようにピンと張り詰めた空気とまではいきませんし、正直弛緩した空気になる事も多いですが、普段よりも生徒とのコミュニケーションという名の雑談も多く取らされていますので、私にとってもより生徒を身近に感じることができ、楽しいと言えば楽しい時間です。

もちろん、本日休みを設けたもう1つの理由である欠席者のための補講(3面、4面授業は当たり前)を朝からぶっ続けでやらねばならなく、決して楽しいだけの1日ではありません。3面、4面授業は、暇な生徒を作らないように気を遣いながら、生徒の能力に合わせて効率よく抜けた分を埋めていくという作業になりますので、けっこうキツい。私の能力的には3面までが限界ですね。4面でやろうとすると、優秀生徒が暇になってしまう。(さらに、この補講のために設けた日も来れない生徒が予想に反して多くいるため、完全に埋め切れていないという不完全燃焼状態がツラさに輪をかける)

こういった補講を今のようなやり方でやらなくても済む方法を、2パターンほど思いついた(といっても古典的な手法ですが)ので、これに懲りて次年度は新システムで挑みたいと思っています。講師の数は変わりませんが、割ける時間は皆少なくなる中、生徒数だけが増えているのですから、正直限界というわけです。

ただ、講師の技量を見るというか上げるには程よいくらいの負荷がかかりますし、新人を育てるには良い試練なので全く必要のないシステムにしてしまうには惜しい気もしていますが、まあ、当塾はベテラン揃いですから当面不要。というわけで思い切った道に進むとしますか。

もちろん、手を抜くわけではありませんし、私自身は、効率化を推し進めすぎてしまうのは、塾という業務形態には馴染まないと考えています。私が指揮する限りは、生徒の満足度を上げることを最優先に、知惠をしぼっていきたいと思っています。

さて話を戻しますが、補講の疲労感漂うなかでの、唯一の気分転換が生徒との雑談です。まあ下手をすると雑談=勉強の邪魔をしている、ことにつながりますし、授業時なとでは、勉強したくない層ほど雑談を好み、先生の話にうなづくふりをしながら「雑談」で授業時間を減らすことを狙っているということもあります。あまり、調子に乗らないようにはしていますが、私自身も生徒とのお話は楽しいですから、こういう日はついつい多めになります。

とくに授業中は、生徒にある程度の答えを期待した「一方的で」「お約束の」会話ばかりとなりますので、本当の意味の会話が成立しているわけではありません。双方向の会話というものに飢えています。

ただ、やはり度が過ぎる「うるささ」はルール違反。昨日、授業前に、小学生のようにギャーギャーと騒いでいた連中に「何しに来てんねん!」と切れていますし、「そんな状態で、だらだらと夜に残るな!」とも言っています。

ほんと、叱らないで済むのであれば、それが一番良いのですが、残念ながら今年もそういうわけにはいかなかったようです。

怒りながら感じたのは、例年よりも怒りのパワーは五分の一くらいで、テキストを机に叩きつける程度で気分がおさまってしまったこと。どうしようかと焦ったくらいです。壁破損や黒板をへこましたのは遠い過去。「怒る」のは本当に疲れるようになりました。

年齢を重ねれば、怒りのパワーに身体がついていかないのでセーブするのでしょうか。怒りにまかせて突っ走ることが出来ないので不完全燃焼。でも、できれば、かっこつけて冷静なふりをしてスマートにいきたいと思うようにもなっていますし、こっちの生徒は上品ですので、それを可能に出来ると講師側に思わせる要素が多分にあります。尚更、その方向に進みたくなってしまっています。

ただ、「北」から「南」にやって来た講師が、ほとんど通用しなかったという例が多かった原因の1つに、上記の要素があるのではないかと推測していますので、生徒の質を頼みに自身を合わせてしまうのも、あらゆる可能性を狭めてしまうことになりかねません。

また、その昔、単に生徒に関心がない、熱い思いもない、だから「怒り」は沸かない。ときたま怒るのは、自身の「自尊心」が傷つけられたときだけであり、生徒のために怒っているのではない、ということを生徒にしっかりと見破られていた講師を見ていることが、私にその方向へ走る事へブレーキをかけさせています。

今のようにTwitterも何もない時代でしたので、色々な塾人から学ぶことは出来ませんでしたが、それでも、ともに生徒を受け持っていた講師達が、みなそれぞれ独立し自身の塾を構え、そして現在でも塾業界から一目を置かれている人の下で若い私は影響を受けることができたという恵まれた環境にいたことは以前ブログにも書きましたが、その素晴らしい講師の数と同じくらいの、真逆のダメ講師も見てきたという経験も持っています。

そして今、私自身が決して真似したくない(というか、生徒から敬遠されていた)タイプの講師が数多く存在していた年齢のゾーンに近づきつつあることに若干恐怖を覚えています。

若き私が、今の私を見れば、「あんたも同じだ!」というかもしれないという恐怖。反面教師として気をつけてきたつもりでも、自身で気づかない間に変わってしまっているのかもしれないという恐怖。

自身が塾人としてどこに向かおうとしているのか、未だに見えないことが原因ですね。情けない話ですが、でも真実です。

決して自身の若き頃を記憶の中で「美化」しているつもりはありませんが、色々な場面で、あれ?昔と違うなという「違和感」のようなものを感じることがあるのです。

しかし、それでも多くの生徒が塾を頼って日々精進しにやってくる。その風景だけは、昔と何も変わっていません。「来年も是非とも先生に受け持って欲しい」という声を聞けるというのも昔と何ら変わっていません。(その数は減ったかもしれませんが泣)

そんな生徒たちに、きっちりと応えるための設備と環境と人材をつくっていく事が、自身に課せられた使命であることも変わりません。

さあ、明日はお休み。珍しいことに溜まっている仕事もありません。早朝出勤のおかげで見事にクリアーしています。

命の洗濯を!なんてステレオタイプの言う台詞を言いたくはありませんが、たまには言っても良いでしょう。明日は洗濯してきます!! (といって、本当に溜まっている洗濯物を片付けるだけだったりして)